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昭和42年9月、広島県呉市で生まれた。
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| 親父とお袋がコーヒー屋を営んでたこともあって、小さいころからコーヒーは飲みっぱなし。小学校に上がる時には朝、「マグカップでブラック」が一日の始まりだった。 |
| すでに、家族の誰よりもコーヒーを飲んでいた・・・マジで。 |
| 「浴びるほど」という言葉どおり飲みまくっていた。考えようによっては親父の洗脳が始まっていたと言えなくもないが、当人の俺にそんな意識はなかった。
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ただただ、
「コーヒーって、うまいの〜」
そう思っていただけだ。
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しかし当時は「コーヒーは体に悪い」「飲みすぎると頭が悪くなる」などと馬鹿馬鹿しい「定説」がまかり通
っていた時代。
ある意味でコーヒーの成分や味だの香りだのが、まだしっかりと理解されておらず、科学的根拠もないままの、のんびりとした時代だった。
コーヒー通はモカ、キリマン。最高級品はブルマン。そしてコーヒーは家庭ではなく喫茶店で飲むもの。そんなのんびりした時代だった。両親が喫茶店を経営してるって友達も多かった。
「バブル」なんてまだまだ先の話。
「価格破壊」がデフレを呼ぶなんて、これっぽっちも考えてなかった。
なんてったってまだ小学校に入学したばかり、学校の先生が「コーヒーは体に云々」とのたまい、コーヒーよりもむしろ両親を悪く言われたと激昂して噛み付いたことはあったが・・・。
平穏無事に過ぎていった日々。 |
| ある日のこと、学校が終わって帰ってみると「店」の様子が違う。 |
| 呉市の商店街の中ほどに親父の経営する店はあったのだが、喫茶スペースはなくなり、変わりに聞いたこともない種類の真新しい看板を付けられたコーヒー豆たちが、店をまさに占領していた。
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「いらっしゃいませ〜」
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お客さんが来店中は必ず挨拶して店に入る。そうしないと親父に怒鳴られるからだ。
「なんかいつもと全然ちがうのお」そう思いながら新装開店で賑わうお客をすりぬ
け、ランドセルを放りなげバットとグローブを持って友達と待ち合わせてる近所の公園へ急いだ。
子供ながらに店の雰囲気が変わってしまったことは気が付いてた。喫茶店からコーヒー豆売り専門店へ変貌したのである。
その前の年、1975年コーヒー業界に激震が走っている。
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「ブラジルの大霜害」である。
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世界最大のコーヒー生産国ブラジルを「霜」が襲い、ブラジルのコーヒーは壊滅的打撃を受けた。ブラジルは世界最大のコーヒー生産国、シェアNO.1って事だよ。
それが、打撃を受けるとどうなるか?結果、コーヒー相場は一気に高騰し、連日の高値が続く。当然、売価もとんでもない勢いで跳ね上がり、まさにコーヒーは血の一滴と言われたらしい。
翌年、親父は「コーヒーミッション」に帯同し、メキシコ、コロンビア、ブラジル、ハワイ等の生産国現地視察を行っている。米と違ってコーヒーは収穫を行えるようになるまで通
常四年を必要とする。一部例外もあるが、これは今日に於いても変わらない。つまりもとに戻るまで最低4年ぐらいはかかるって事。
霜害の影響が色濃く残るブラジルで親父は考え方を変えることになったようだ。 |
一杯のコーヒーを売ることから、一粒のコーヒーを売ることに切り替えたわけである。
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どれほどのショックを生産国が親父に与えたか当時の俺には知る由もなかった。「ずいぶん長い旅行じゃの〜」そう思ってただけだ。それから十数年後、自分も同じ経験をするとは思っていなかったが。
一気に変わってしまった店のなかで、一番大変だったのはお袋だったのではないかと思う。朝から晩まで気の休まる暇もなかっただろう。
親父が店の中でお袋を怒鳴り散らしていることなど日常茶飯事、そんなことで怒らなくても・・・、子供の俺から見てもいきすぎ、やりすぎな事はたびたびあった。
もともと親父の血の気は多いほうだが、得意先を怒鳴りつける、仕入先を怒鳴りつける、手が出る、時には客に対しても容赦しない。
コーヒー生産国が親父を変えてしまった。
今考えれば必死さの裏返しだったかもしれんが・・・。
前々からそんな性格ではあったが、さらに拍車が掛かった。 |
親父はいったい「コーヒー生産国」で何を見たのだろう。
でも、お袋の身にもなれよ、親父。そんな親父だったからよく殴られた。中学校を卒業するぐらいまで、いや、高校にに入っても殴られてたな〜。最初はビンタ。
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もちろん往復
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| おしまい頃には鉄拳が飛んできた。別
に俺は不良学生でもなんでもなかったのに、何であんなに殴られたんだろう。顔を腫らして学校に行ったことなど1度や2度ではないのだ。
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今で言うなら子供に対する虐待だぞ。
よく、ぐれなかったものだ、ホンとに。
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| 口より先に手が出ていた。親父が怒鳴り始めると、お袋が親父の周りの物を片付け始める。本、灰皿、しょうゆのビン、茶碗、おかずの残ってる皿。色んな物が飛んできた。
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包丁が飛んできたこともある。
そんなもの我が子に投げんなよ
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| 親父が怒鳴り始めると、何が起こるか解らない。ガキンチョな俺は、2、3発ぶん殴られて、すっとばされ、涙と、鼻水のまじったグチャグチャな顔でオフクロの後ろに逃げこむ。それが親父の感情に「火に油」である。 |
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「わりゃあ、女の後ろに隠れやがって!!」
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| 最終的にはなんで起こられているのかわからなくなる事さえあった。でも、理由なんかほとんど忘れてしまったがやっぱり俺が悪さをした時が一番ひどかった。特に嘘をついてごまかそうとした時。なんてことはない、習い事をサボってたり、遊びほうけて帰宅時間が遅れたり。「お前、今日ちゃんと塾いったんか?!」「う、うん・・・。」「ウソをつくな!!」だけど、そういうことってあるでしょ?今、大人になったから冷静だけど。 |
高校に入って空手を始めたのも「いつか親父を殺してやる」そう思ってたから。でないと、本気で殺されると思ってたから。でも、なんで反抗しなかったのだろう。別
にビビッてたわけじゃないんだよね。理由は一つしかない、俺は親父やお袋が遊んでいるのを見たことがないのだ。毎日くたくたに疲れて二人とも帰ってくる。参観日、遠足、運動会、ほとんどまともに来てもらった記憶はない。「遊んでるわけではないのだ」それはわかっていた。毎日店に帰ればお客さんに頭を下げている。なんとなくそれはわかってたから、子供ながらに生意気にも親父とお袋も頑張ってるのがわかってたからやばいことにはならなかったんだろう、
多分。 そんな親父も今じゃ立場的には「おじいちゃん」だ。二人の孫に恵まれることになった。 |
「親父、ワシ子供のころにあんたによう殴られたろうが?」
「おお、そりゃお前が悪さばっかりするけえよ」
「ワシ、殴られるのがいやじゃったけえ、子供が出来ても殴らんと育てるつもりじゃったんじゃがのお」
「うん・・・」
「やっぱり、無理じゃわ。二人とも男の子じゃし、ぶち殴って育てるようになるで」
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「絶対許さん!!!
わりゃあ、孫に手え出してみい!?
ぶち食らわしちゃるぞ!!!」
・・・殴られ損かい!!!
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| そんなこんなでなんとか高校にまでは潜り込んだが、学校の成績は低空飛行。いや、超低空飛行。それでも「ま、なんとかなるだろ。大学ぐらいは行けるだろ」そう思ってた。成績が良かったのは美術ぐらい。けど、いわゆる5教科はズタボロ。とくに数学なんてひどいもので、数学担当が空手部の顧問の先生じゃなかったらマジでやばかったと思う。
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先生ありがとう。
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| 卒業後の進路についての三者面談で俺とお袋の顔はひきっつていた。担任の先生の顔もひきっつていた。まさか俺の口から「進学」と言う単語が飛び出そうとは。一応進学校とはいえ下から数えた方が早い俺の成績。担任の先生も俺が進学希望とは夢にも思っていなかったようだ。
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「この成績で引っかかる大学はありません」
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| 無常な先生の言葉が響く。お袋はそれでも何とかなるんじゃないかと思ってたみたい。
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お袋、そんなに甘くはないのだよ。
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家に帰ってからその報告をお袋が親父にしている。なるべく逆鱗に触れないように。俺も、いつぶっとばされるかと思っていたが、意外や以外、ちょっと落胆したようなそぶりを見せていたのみ。なんか拍子抜けしてしまったが「なんとか大学に行ける様頑張ってみろ」って事でその場は収まった。
親父もお袋も大学に行ったことはない。しかしそれなりの成績は採ってたようで我が倅の頭の中身がこんなに悪いとは思ってなかったのだろう。二人とも進学は出来ればしたかったらしい。しかし学費をどこから捻出するか、断念せざるをえなかったようだ。言い換えれば自分達に出来なかった事を倅に託した。そこまではよかったが俺はそれを物の見事に裏切ってしまった。
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| 一方の俺はというと事態のやばさをかみ締めていた。「親の期待に応える?」いやいや、そんなことは少しも考えていなかった。
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「この町から脱出したい」
当時の俺はそれのみを考えていた・・・。
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今、こうして呉の町に住んでいるわけだが当時とはまるで考え方が違っている。不景気風は相変わらずガンガン吹いているが、おだやかで、食べ物も美味しい。おまけに安い。デパートなんかも出来たりしたが俺はこれ以上呉の町に変わって欲しくない。適当な田舎。用事があれば隣は100万人の街広島だ。そこにいけばいい。生活に必要なものはほとんど手に入るし、情報はネットで検索すればいい。
しかし高校時代の俺にはこの町はとんでもなく退屈な町だった。そのストレスは徐々に「東京への憧れ」へと変わってゆく。俺に大学進学をさせたかった両親は「大学ならどこでもいい」と常々言ってた。 |
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ありがたや、ありがたや。
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ところが俺のあまりの出来の悪さに個人的な「東京進出計画」がだめになってしまうかもしれないわけだ。
そう、「東京進出計画」とは大学在学中、親のすねをかじり倒してキャンパスライフをエンジョイすることに他ならなかったのだ。
「やばい、真剣にやばい」どこか適当に、東京の大学に進学しようと企んでた計画が崩れてしまう。就職と言う手もあるだろうが、東京で働くことが目的ではない、東京で遊ぶことが目的なのだ。花の都大東京が逃げてゆく。受け入れがたいが自業自得が招いた現実を克服しなければならない。 |
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俺のとった行動、そう、勉強し始めたのである(笑)
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| 幸か不幸か担任の先生に宣告されたのは高2の夏休み終了後。時間はまだ多少あった。あたりまえのことではあるが、やればやるだけ成績は伸びてゆく。別
に有名私大や国公立を目指してるわけではないのだ。全滅状態だった志望校の選択幅も、模擬テストのたびに増えていく。ようするに受かりそうなところが増えていったわけだ。そのなかで1校に絞った。東京都町田市にある某大学。横浜へも渋谷へも40分。両方ともあこがれの街である事に変わりはない。これに決めた。一般
推薦試験だったので、受験教科は英語と現国のみ、後は面接。で、受かってしまった。
後にも先にも大学受験はこの一回、一校のみ。志望校の選択といい、上京の動機とい
い、実にいいかげんで大変よろしい。聞く人が聞けば ぶっ飛ばされそうな内容だが、受かってしまえばこっちのものだ。
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だ、だろ?
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