クラーク博士の珈琲

人口180万人、北の都市「札幌」。
我が国の歴史の中では、若い街であり、独特の気風は水産物、農産物、乳製品等とともに一大観光地として多くの人に親しまれています。中央区にある「時計台」には開拓同時を偲ばせる資料が展示してあり、もちろん観光スポットとしても有名なところですが、「開拓時代のメニュー」をみることも出来ます。1876年、ウイリアム・S・クラークは「お雇い外国人」として日本の地を踏みます。

当時の日本は列強諸外国に追い付き追い越せと息さかんであり、貪欲に技術、文化を吸収していました。
その翌年には我が国で初めて「輸入」と言う形で、約18トンのコーヒーが日本に到着しています。「文明開化」の名のもとに技術革命や異国食文化の導入が盛んに行われるなか、コーヒーは異国の香りを伝えるハイカラな飲み物としてもてはやされ特権階級の間で楽しまれていました。一方、キャプテン・ジョン・スミスによって新大陸アメリカに初めてコーヒーが紹介されたのは17世紀初頭、1668年。

しかし、それまで紅茶の国だったアメリカがコーヒーの国へと変貌したのは「ボストン茶会事件」が原因です。
コーヒー貿易でオランダ、フランスとの競争に敗れたイギリスは、紅茶の貿易に転換し輸入紅茶を独占。
「茶条例」を配布の上で価格を吊り上げ重税を課していましたが、イギリスの植民地だったアメリカはこれに反発し、ボストンの港に停泊していたイギリス東インド会社船を襲撃、積まれていた紅茶を全て海中に投棄してしまいます。
「ボストン茶会事件」、1773年の出来事ですが、アメリカがコーヒーの常用引用国になった直接の原因でした。「ボストン茶会事件」以後、アメリカは世界最大のコーヒー消費国へと変貌を遂げますが、1776年「独立宣言」、1861年「南北戦争」と、次々に革命的事件が起こります。

コーヒーもそれらの渦中にあって徐々に時代に溶け込んでいきました。
「南北戦争」でいえばそれまで、兵士達が休息に楽しむ物と言えば「ラム」だったようですが、それに代わりコーヒーが兵士達の間で拡がり定着した記録があります。
簡単、便利、ノンアルコール、しかも美味しい。当時のアメリカのコーヒースタイルを表す記録です。アマースト大学で鉱物学、科学を専行し自らも教鞭を執っていたクラーク博士は、「南北戦争」に参戦し活躍、最終的には北軍の大佐で退役し、教職の道に戻ったようです。

そんな彼にやはり激動で揺れる日本からラブコールが掛かります。
アメリカ駐在日本公使「吉田清成」は日本政府の任命を受ける形で新天地北海道開拓使顧問として調査を依頼しました。
遡ること5年前、やはりアメリカ農務長長官「ホレス・ケプロン」を北海道開拓使顧問として調査を依頼しています。
ケプロンは開発実現と優れた人材の育成の場として「札幌農学校」の設立を提案します。
そして、「クラーク博士」は農学校教頭として活躍することになります。

北海道開拓使長官「黒田清隆」との二人三脚は、「農学校の教師、学生はアルコールやたばこを薬以外として使わない、また、賭け事や神を汚すような言葉を使わない」を基本に「ジェントルマン」の育成を目指したようです。
食事は脂肪分を多くし、寒さに耐えられるよう、また、良い体格を造るため、じゃがいも、パン、バター、肉(鹿等)の洋食を中心に構成されています。「札幌時計台」でも当時のメニューが紹介されていますが、コーヒーは「かふぇー」と呼ばれていたようです。

「クラーク博士の珈琲」は、当時のアメリカへの輸入記録、加工記録をもとに再現したコーヒーです。
メインになっているのは、ブラジル、ジャワ、エチオピアで、これらを焙煎し混ぜ合わせています。
現在のコーヒーのような柔らかさよりも、開拓時代に珍重された野性味あふれる苦味と飲み口のよさを特徴としていますが、独特の味わいが生まれたと確信しています。

「Boys, be Ambitious!」
彼の残したこの言葉は今も多くの人の心に残っています。祖国を遠く離れ「札幌」で彼は何を見ていたのしょうか。「クラーク博士」、お試しください。

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